「東日本大震災、きょうで3年」

2014年03月11日

「東日本大震災、きょうで3年」

今日は3月11日。東日本大震災から3年目の朝を迎えました。今日の「とくダネ!」は宮城県南三陸町にあります防災対策庁舎前から生中継でお届けしました。

ちょうど3年前、震災から1カ月後の朝でしたが、私はここで生中継をしました。その時は、まだ津波に流された家々の瓦礫、あるいは津波に押し流された車の残骸などで足の踏み場もありませんでした。現在は瓦礫はすっかり片付いていますが、津波で流された跡、基礎はそのまま残っています。

どうやら、南三陸町はここから後ろの地域は「自然回帰」させる、住民が住むような地域にはしないという考え方のようです。

まだ東北3県(岩手、宮城、福島)では26万7000人の方が避難生活を送っています。阪神淡路大震災に比べると復興は遅れているといえますが、やはりそれは津波と、「原発」という大きな要因があったからではないでしょうか。膨大な量の瓦礫を撤去するのだけでも安全性が危惧されて、受け入れ先の一部住民の反対などもあってかなり遅れました。地域によって進み方が違いますが、復興はこれから―という感じがします。それも簡単にはいきそうにありません。

震災の記憶をどうつないでいくべきなのか。それについても、それぞれの立場で複雑な思いを抱えています。私がいた防災対策庁舎ですが、3年前に比べて色は確かに赤っぽい、茶色っぽいのは変わっていませんが、よく見るとサビがかなり出ています。震災を語り継いでいくために必要なモニュメントであると言うのも分かるんですが、それを維持するためにはお金も必要だということなんです。

津波で43人が犠牲になったところで、この日も庁舎の前で手を合わせていらっしゃる方がいました。南三陸に来た方はたいていここに寄られるみたいです。あの時のままで残っていますから。ここを残すか残さないか、どうなんでしょう。ここでお身内を亡くした方にとっては庁舎を見ることはつらいことでしょうし、震災遺構なんて見たくないという方も多いでしょう。ただ、津波はここまで押し寄せてきたんだという話をする人にとってはこの建物は残したほうが良いのかもしれないし…。難しいですね…。

話は飛びますが、私も仕事の関係で土地勘がある東京・日本橋浜町の隅田川沿い、新大橋の傍らに、関東大震災(大正12年)のときの地獄絵図のような状況を記した(刻書)碑が建っています。篆額(篆書=てんしょ=で書いた碑の題字)は貴族院議員だった伯爵・有馬頼寧(ありま・よりやす)氏。記された文言を読むと、当時の悲惨な状況が偲ばれて涙が出ると友人が言っておりました。

災害対策庁舎を遺構として残すか、撤去するか、今は宙に浮いている状態のようです。ふと思ったんですが、南三陸町のこの場所が公園になるようだったら、当時の状況を記した記念碑(慰霊碑?)、ここへ建てたらどうでしょうか。最後まで町民へ避難を急がせる放送をし続けた女性職員や職務上居残って命を落とされた方々の慰霊にもなるかと・・・。町民の意向もあるでしょうから急ぐことはありません。隅田川の記念碑も建立されたのは大正の大震火災から10年後、昭和8年とありました。

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