「藤圭子・宇多田ヒカル」

2013年08月28日

「藤圭子・宇多田ヒカル」

22日に藤圭子さんが亡くなったのを知って衝撃を受けました。とくダネ!でも当然取り上げられてきていますが、あえて余計なことはなるべく話さないように努めてきました。衝撃が大きすぎたのと、まだどんなことなのか分からないことが多すぎるように感じていたからです。

翌23日、金曜日に番組でちょっとだけ「作家の五木寛之さんが藤圭子さんの歌を「うらみ歌と書く怨歌(えんか)」、怨みから生まれた演歌とおっしゃったのを記憶していますけど、あまりこぶしを回さないでハスキーな声で歌う独特の演歌で、私も好きでした」と言いましたが、私は本来の意味のブルースだと思っています。デビューしたのが1969年、「新宿の女」で衝撃を与えて、翌年出された「女のブルース」がオリコン1位、次いで立て続けに出された「圭子の夢は夜ひらく」が空前のヒットになりました。C/Wの「東京流れ者」も好きな方、多かったんじゃないでしょうか。

藤圭子さんがみずから命を絶って6日目の昨日、娘の宇多田ヒカルさんが遺体が安置されている目黒区の碑文谷会館に入り、二人だけの時間を取って、そのあと父の宇多田照實さんとともにお別れをしたと言います。そのあと霊柩車の助手席に乗って桐ヶ谷斎場へ向かったそうですが、帰国してそのまま駆けつけたのか喪服ではなく黒のシャツだったようです。

遺言だったようで通夜も告別式もない、寂しい旅立ちになりましたが、何よりも愛したと思われるヒカルさん、そして離婚されているとはいえ夫だった宇多田照實さんも寄り添ってご一緒だったのでほっとしました。宇多田ヒカルさん才能については業界の中でもいろんな方が感嘆しています。

月日が経つのはつくづく速いなと思うんですが、宇多田ヒカルさんがデビューしたのが15年前で、忘れもしません「とくダネ!」の1回目の放送で宇多田ヒカルさんを取り上げたんです。ですから、とくに印象に残っているんですが、日本におけるデビューは鮮烈なものがありました。みんな、唖然としたんです。Automatic(オートマティック)を聞いて

あの時の気持ちは未だに忘れられないし、彼女がアルバムを出すのを首を長くして待っていた一人です。彼女はかならずDVDのプロモーションビデオも出しますが、それも斬新でした。ぜひ、早く現役に復帰してほしいなと思います。それも心の整理がついてからということでしょうけど…。とにかくお体を大切にしてください。

藤圭子

宇多田ヒカル

 

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